私が家の近くの公園を通りがかったときに見たのは、白い服の子どもだった。遠目だったので男の子か女の子かは定かではない。肩にかかる爽やかな黒い髪が無邪気な動物のようにはねている。公園はテニスコート二面ぐらいの大きさで、周縁に配置された遊具で他の子どもたちが遊んでいる中、その子は中央の開けた場所で無我夢中に踊っていた。激しく動いていながら極めて滑らかであり、ヒップホップよりはクラシックのピアノ音楽をバックに踊っているような静謐さも感じさせた。日の光は汗を輝かせ、踊りのさなか公園の砂に染みを残す様は、句読点を打つ小説家のようだ。その踊りはこれまで見たどのような型にもなじまない。ブレイクダンスでもなければ、ミュージカルでも、バレエでもない。身体の各部位がバラバラに、それでいながら波のように連動して動き、自然現象にも意志の発露にも見えた。
その子が踊る理由はなんだろう? 習い事の練習にしては混沌としており、衝動の発散にしては秩序が匂いすぎている。回る、跳ぶ、ひざまずいて笑みをたたえ、前に転ぶよう倒れ込んだ瞬間反転し、空に向かって伸びるひまわりのように凛として身体を起こす。時間は踊りに吸い取られ、私はその場で歩みを止めていると同時に、中から溢れ来るものへの対処を諦めていた。その子は踊るために踊っている。そうとしか表現できなかった。一つ一つの動作も完璧な必然性が感じられる。腕が振られたのは、そう決まっていたからだ。しかし、運命論にとらわれない自由さもたたえている。
私は多くのものに恵まれていたように思う。人間関係や仕事や趣味、経済的安定に愛。それは私がそうしたいから手に入れたものだと思っていた。だが、本当にそうだろうか? あの子の踊りを見てわからなくなった。人生で光る瞬間はいくつもあり、それらを思い出すことができる。ただし、あのように踊っていたかは定かではない。
その子はいつから踊り続けていたのだろう。踊っていないときは何をしているのだろう。それともずっとあのように生きてきたのだろうか。だとしたらそれは私にとって希望だった。あの子は踊りたくて踊っていたのではないかもしれない。生活として踊っていたのだ。私はあの子の踊りを見たのではない。あの子を見ただけだ。そして心を動かされた。私もそのように生きたいと。
一連の文章が、量子コンピューターで処理が走る最新のAIによって吐き出された。これがクラウド上に集まった全世界の人々の行動データから導き出された「人類が求めているもの」の集合的回答らしい。30年前のコンピューターであれば処理が完了するまでに100年は費やされたであろう処理はものの10秒で完了したが、その内容は大方の予想に反したものだった。それは答えというよりは問いであった。人々の欲望について関心を寄せていた哲学者や心理学者、政治家や巨大企業の経営者、その他市井の人々は戸惑い失望した。最も簡潔な答えを出力するよう洗練されたプログラムとして信頼を得ていたAIシステムであったが、まさかこのように比喩的なデータを「最小出力」とするとは想像だにしていなかったからだ。「踊り」とは、なんだ?
核兵器の完全撤廃、環境問題や格差社会を概ね解決した人類の目下の課題は「退屈との向き合い方」である。私たちは、私たちが究極的に何を望んでいるのか、それを知りたい。自身の欲望の正体とそれへの対処法について実証主義的に導き出そうとしたが、このザマだ。ああ、これからどうやってこの平和で豊かな世界を享受していこうか。さらなるテクノロジーの発展を待つばかりである。
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