「継続」は本当に誇れることなのか?

「石の上にも三年」という言葉もある通り、一般的に物事を継続することは美徳とされる。しかし、本当にそうだろうか?

自分が苦しい状況や力を発揮できていない活動、自分に合っていないと思われるスタイルを、「続けることが大事だ」「継続力が私の優れた部分なのだ」「今まで頑張って続けてきたのだから」という理由だけで継続することは人生を豊かにするだろうか。

あるいは、自分の長所を「物事を継続できる点」と考えるとき、本当にそれは長所と言えるのだろうか?

今一度、継続について考えてみたい。

「続けること」は誰にでもできる

結論から言うと「継続すること」それ自体に大きな意味はない。それどころか「継続」を誇ることで次の2つの弊害が生じてしまうことが考えられる。

(1)継続自体が目的となり、活動の質の向上や、力を活かせない環境からの撤退の妨げとなる。

(2)継続することは本来誰しもできることなので、それを長所と考えると自分の長所が分からなくなる。

実は誰しも何かしらの活動は日々継続している。1日◯食ご飯を食べること、歯磨き、仕事や学校に行くこと、シャワーや入浴、SNSの確認、テレビ番組を見たり、新聞を読んだりすることなどだ。

誰にでも「継続する力」は備わっている。だが、もし嫌なこと、苦しいことを継続する力のことを指しているのであれば、それは継続力というよりも「忍耐力」と呼んだ方が分かりやすい。

しかし、「忍耐力」は長所と言えるだろうか。ブラック企業に勤め続けることや嫌いな部活やサークルを続けることが長所なのだとしたら、それが誤りであることは自明であろう。「やめない忍耐力がある」というとポジティブに聞こえるが、その環境から自分を守り、自分を活かす場所へ移動するための「勇気が足りない」という方が実態に即している。ゆえに、このような継続は特に誇るべき性質ではない。

一方、自分の気質に合っている好きなことは、自然と継続することができる。たとえば、本を読むのが好きな人がいる。その人は1日に1時間以上読書を継続することができている。ある人にとっては退屈に感じる読書という行為を、なぜその人は続けられるか。

読書が好きだからである。そして、読書から得られるものを十分に知っているからだ。読書でなくとも、スポーツの練習でも、筋トレでも、英語学習でも、日記でも、サウナに行くことでもいい。本当に好きでやっていることなら、本人に「努力をしている」という感覚はないはずだ。それ自体を楽しんでいるか、当たり前だからやっているに過ぎないからだ。

その場合、わざわざ継続を誇ることはない。「今日は3時間ゲームをしました」「今日も歯磨きをしました」と誇っているのと同じようなことだからだ。継続のみを誇る時点で、それは継続自体が活動の目的となってしまっているか、継続を誇るために活動している状態と言える。その場合、活動それ自体を楽しんでおらず、心のどこかで「必要ないことなのではないか」「苦しいけどやっているのだ」という負の側面がある可能性が高い。その場合は先述した「忍耐力」に当てはまるので、むしろ継続を考え直す勇気を持った方がいいと考えられる。

大切なのは継続の中身

もちろん、継続は客観的には成果であり、魅力であり、能力のように見える。しかし、それは少なくとも当人が美点とするほどのことではない。もし、「◯年続けていることが私たちの最大の強みです」と謳っている企業HPを見たならば、「え、内容は何もないの?」という感想を抱くのは必然であろう。継続は信頼につながる面はあるが、それは本質的な強みが世に伝わっていることの結果にすぎない。

継続自体に意味がないのは、たとえば読書嫌いの人がなんらかのルールで毎日10分間、文字を目で追い続けるが何も理解していないというような場合に「自分は読書を続けていた」と誇ることのナンセンスさからもわかる。

重要なのは継続でなく、その活動の中に見出した内容の方だ。哲学者スピノザも持続自体は本質とは別の概念であると言っている(引用箇所確認中)。

重要なのは活動の本質である。そして、自分の力とフィットしたり、楽しみや快感があったりするものは自ずと継続される。それは筋力トレーニングかもしれないし、勉強かもしれないし、やりがいのある仕事かもしれないし、無意味な仕事かもしれないし、ネットサーフィンかもしれない。いずれにせよ、その人が活動からどのような発見や感動、(広義での)力を得ているかが重要なのだ。

続けるべきでないなら撤退する

仮に「継続が誇るべき」というのであれば、私たち(これを読んでいる人)は全員、素晴らしい継続の成果を持っている。それは「生きている」ということである。生産的であろうと怠惰であろうと、楽しかろうと苦しかろうと、日々を精一杯生きてここまでやってきた。生き延びてきた。生きることをやめずに継続してきた。生きていることは、自分の真の心の満足を得るために必要な実験を日々試しているということを指す。その意味で、生きるという活動は本質的に善であり、それを継続できていることは言祝ぐべきことである。

しかし、ただ生きることを継続するだけに魅力を見出していると、人生はいずれ袋小路に入ってしまう。自分のなしたい生き方を探すために、過去に抱いた感動や違和感を見つめ直し、今何がしたいのか、どうなりたいのかを考えることで、はじめて生きることの継続は本質的な意味を持つ。

真に重要なのは継続の内容である。継続だけに意味を見出していると、それをやめるべき時にやめられなくなる。「持続こそがわが美徳」とすれば、撤退すべきときに撤退できなくなる。撤退は挑戦や継続と全く同じレベルで勇気と知恵を必要とすることであるとスピノザも言う。撤退も挑戦も継続も、それ自体はすべて善でもなければ悪でもない。ただの行為の一様態である。

「ギャンブラーズ・ファラシー」という心理学の用語がある。今までこれだけ続けてきた、リソースを割いてきたのだから、という理由でやめられなくなり、さらに損をしてしまう現象のことだ。下がり続ける株に投資し続けることはもちろん、ブラック企業に勤めることや、苦痛に耐える力をつけるためだけの部活動などの場合において、「継続が美徳」の考え方はもはや呪いにすらなりうる。

そのため、もし今継続している中で、自分の本質的な力に結びつかない活動や、それらを阻害する活動を行っているのだとしたら、可能であれば継続を止め、撤退する方向にシフトしていくことが優れた判断となる。「継続を美徳」と考えていると、撤退する論理を自分の中で組み立てられなくなり、機会を逸し続けてしまう危険があるので、気をつけたい。

「継続」を捨てることで本当の長所が見える

「継続は美徳」という考え方は、継続か撤退かを考える上での合理的な判断を疎外する要因になる。それともう一点、本来存在している自分の長所の発見を遅らせてしまうというデメリットもある。

継続は誰にでも備わっている能力であるから、それを長所と誇ることは「私は呼吸できることが長所だ」と言っていることと実はそれほど変わらない。それ以外の真の長所を探すためには、「呼吸自体は長所と言えない」とまず認識するところから始める必要がある。なんとなくの認識(スピノザの「想像知」)が、本当の認識を妨げる1番の要因だからだ。

「継続力」を自分の長所から外すことで、早いうちに本来の自分の長所に出会う確率が高まる。まずは「継続は美徳」というなんとなくの常識(想像知)を疑い、「なるほど、そのような理屈で継続自体は美徳となりえないのだ」と認識する(理性知)。その先にはじめて「なるほど、自分の長所は◯◯だったのか」と腑に落ちる発見(直観知)が待っている。

そして、自分の美点がわかれば、継続する活動の対象を移したり、今のスタイルを変更したりすることで、自分の力をより十全に発揮できる自由な景色に近づいていくだろう。

筆者も含め多くの人がそのような景色を見ながら生きることができれば、それに勝る社会はない。


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