私たちは基本的に「明日も明後日も来年も10年後も生きている」という前提のもと生きている。でも、本当はいつ死ぬかなんてわからない。
明日ミサイルが落っこちてくるかもしれないし、交通事故に遭うかもしれないし、テロリズムに遭遇するかもしれない。
これは僕が昔西荻窪に住んでいたときに起きた事件だ。夜買い物に歩いて出かけ、駅前の交差点を渡って少し行ったところ、ただならぬ気配を後ろに感じた。振り返ると、タクシーが90度回転してすぐ後ろにあるガードレールに突っ込んできた。嘘みたいな話だが本当だ。さながらハリウッド映画の1シーンのようであった。
僕はイヤホンで音楽を聴いていたにもかかわらず、歩いていた場所がよかったため無傷ですんだ。でも、すぐ目の前に人が倒れていた。大怪我を負って意識不明のようだった。しばらくして救急車が到着し運ばれていった。一命をとりとめられたかは分からない。直撃していたら自分の命も確実に危なかった。
僕はすぐに一人で住む家に帰ってしばらくこの事象が何を意味するかについて考えていた。考えざるをえなかった。死は日常の隣合わせに存在した。なんなら1メートル先にそれはあったのだ。そして、誰かの死の前に無傷の僕は存在し続けた。つまりは、生きている。
これは、なんだ。
神様が生かしてくれた? 死んだ母が守ってくれた? 自分の危機察知能力の高さに救われた? ただの偶然?
わからない。だが、そこに必然はあったのだろう。何らかの原因があったから、タクシーがリボルバーの弾丸のごとく回転して突っ込んできて、僕の近くに歩いていた人(乗客かもしれない)が被害に遭い、自分は助かったのだ。もしかしたら運転手が少しでも回避しようとしてくれたのかもしれない(そういえば運転手の人はどうなったんだろう)。
でも、その必然がどういう仕組みかは到底わからない。運転手の人がなぜそのような運転をするに至ったのか。なぜ自分がその日その時刻、たった1メートル前方を歩けていたのか。外出するのが10秒ほど早かったからか。歩くスピードが時速0.01キロメートルほど速かったからか。あるいはその時聴いていた楽曲のテンポが良かったのかもしれない。
自分が死なずにすんだのは全くの偶然ではない。だが、それに意味があるのか? 神のご加護、肉親の保護、自己の能力。あるいは何らかの警告、命の意味を考えろという何者かからの問いかけ…。
人は不条理と眼前で向き合った時、どうしても「意味」を求めたくなる。自分の感情に大きな揺さぶりをかけた事象に対して、理由や目的、意図などを考えずにはいられないのだ。
でも、きっとこの世界は僕たちが思っている以上に不条理があふれている。大きな災害があったとき、自分がその場にいなかったのは、そこに生まれて育っていなかったからだ。飢餓や戦争に巻き込まれていないのは、生まれた時代や場所がここだったからだ。
自分の遭遇した交通事故もそれら数多の不条理の1つが目の前に分かりやすい形で表れただけだ。
世界は怖い。そう、世界は本来恐ろしい場所なのだ。そんな当然のことを僕たちはあまり認識しないで生きている。日本にいて深刻な問題に巻き込まれていないと特にそうなる。整ったインフラで、安全な街で、日常で欲しいものは手に入り、飢えに困らず、エンターテインメントにすら事欠かない。
しかし、オウム神理教による松本サリン事件や秋葉原通り魔事件、京都アニメーション放火殺人事件や福島第一原子力発電所事故など、極めて理不尽な事件は、そんな日常の中で起こったものだ。ありふれた交通事故も含め、そのような不条理が起こる可能性が漂う中で、僕たちは呼吸をして生活している。
事件の被害者に責任は無い。だが、それはただの偶然でもない。事件が起きる土壌は闇の中でいつの間にか育ち、私たち成人がつくっている社会はそれを防ぐことができなかったのだ。そして一部の人が被害を受けてしまった。自分はその対象にならなかった。幸運にも。
人はどこで死ぬか分からない。明日にも私たちは死ぬかもしれない。そう思って生きることは、現実を認識するという点では必要なことだ。僕たちは常に死と隣合わせであり、今日生きていられることの理由ははっきりしない以上、それは偶然と言える。
久々の飲み会で酒を飲みすぎて死ぬかもしれない(実際僕は死にかけた)。飲酒運転の車が飛び込んでくるかもしれない。乗っている電車が脱線するかもしれない。
日頃死と隣合わせの感覚を感じないですむのは、先人や世界を守る人たちによる弛まぬ努力の結果であり、僕たちはそれを享受することができている。大切なのはその奇跡に感謝しつつも、この世には不条理が存在しているという当然の事実を忘れないことだ。
不条理はその定義上、意味なんてない。そこに秩序を見出そうとすることはもちろん重要であり、原因を究明し今後の対策を講じることは未来の悲劇の防止につながる。
しかし、こと「なぜ自分がこんな目に遭わなければならなかったのか」ということに関しては、分かりやすい説明ができない。バタフライエフェクトという言葉もあるが、小さな因果関係の組み合わせでそうなってしまったのだ。「たった1人の犯人」がいるわけでもない。法律上の「犯人」だけが本当に犯人だろうか? 関係する人のちょっとした怠慢や悪意や無能や弱さの積み重ねが生んだ悲劇であり、社会の構造自体が原因である場合も多い。
私たちの生活を覆う不条理に「たった1人の犯人」などというものは存在しない。不条理のすべてを「たった1人の犯人」で秩序立てて説明してしまうのは簡単だ。そのような「陰謀論」は実は最も知的負荷の少なくてすむ生存戦略である。
しかし、人間は「決定の留保」が大きな特徴の1つだ。船の上から先の方に見える正体不明の浮遊物があったとき、私たちはそれを「何らかの危険物かもしれないが、そうではないかもしれない。今は1度保留しておいて、もう少しだけ近づき再度観察してみよう」と考えることができる。
それができないとき、私たちは「分かりやすい結論」に飛びつくことになる。それは確かに楽かもしれない。ある一面では事実なのかもしれない。しかし、不条理を説明する部分的な原因にすべての責任を押しやってしまうことは、現実で起きていることの大部分に目をつむることに等しいことだ。
安易な「陰謀論」にすがることは、現実の歪んだ認識を生み出す。理解が浅いまま判断したことは誰かの悲しみや憎しみ、不幸につながってしまう。大事なのは、しっかりと知的負荷をかけて不条理な現実を少しでも包括的に理解しようとすることだ。
陰謀論は思考を止める。不条理はもっと構造的なものだ。犯人と呼ばれる人を生み出したのは、私たちの選択1つ1つかもしれない。そういう「想像力」を働かせる勇気を持ちたい。
安易で単純な認識よりも、難しくて複雑な認識で保留しよう。前者でとどまるより、後者で進もう。一見、陰謀論の方が理解が先に進み、答えを出せない人が遅れているように見えるが、逆なのである。そのスピーディーさに騙されてはいけない。負けてはいけない。
自分が遭遇した自動車事故についても、わかりやすい「答え」は出ていない。被害に遭われた方と自分の命の重みは変わらない。色々考えたが、そこに意味なんてない。自分には知ることのできない原因の連鎖が引き起こした結果にすぎない。
しかし、そのように保留しておけるからこそ、僕はこの記事で考えることができた。問いは依然問いのまま、自分の人生に関わってくれる。
最後に僕が好きなバンドFoZZtoneの『平らな世界』の歌詞を引用して擱筆としたい。
あらゆる想像に耐えうる心を養っとけ
FoZZtone『平らな世界』
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