無目的な享楽にノる

もう一つは、自分で思い描いた試合展開を実現できたとき。ここには、自分を原因としてこのコート上での出来事が立ち現れる。そのとき、試合(ゲーム)という互いに相手の活動を阻害し合う環境においてなお自己表現できている多幸感が生まれる。むしろ、高い集中力と技術でぶつかり合うからこそ、表現できる自分も豊かになりうる。

自分が構想を描き、自分で実行する。そのとき、スピノザが『エチカ』で語った「自由」すなわち「至福」が訪れる。

これ自体は目的を達成する喜びのようだが、そも設定された目的自体は「そうなったら気持ち良くプレーできる」という程度のもので、無目的に近い。生活がかかるプロも究極的にはこの境位でプレーしていると思う。

ゆえに、テニスで楽しい瞬間、時間二つはともに無目的な享楽に浸っているに過きない。

この〈無目的な享楽〉に浸ることのできる営みを文化と呼ぶ。

今日は土曜日だがプログラミングの仕事を4時間ほどした。時給なので少し稼ぐためだ。あるいは休日でも朝早起きするため。どうやらハマったみたいだ。やることが定まっていたからか、とても捗って、TVゲームを進めていくみたいにプレーできた。

そう、仕事は条件が整えば、報酬の多寡を気にせず遊びのようになる瞬間がある。

テニスの話を踏まえれば、その活動自体が好きなとき、あるいは自分の構想どおりに実行しえたときだ。

自分は設計書などを書くより、とにかくコードをいじくって、プログラムがてきぱき動く様を生み出す作業が好きだ。最低限の文字列の組み合わせから直に無限の表現が編まれうる点において原稿に文を書くのと近い愉悦がある。

しかしまた、文筆は目的なく開いていく方向性をダンスのように楽しむのに対し、プログラミングは、テキストを一定の目的が達成されるようスポーツ的に取り組む面白味がある。両方それぞれ、テクストというミニマルな有機体か〈無目的な享楽〉を引き出す。

また、構想の実現という点で言えば、一番効率的であろう方針を立て、それが上手くいったので、自己を原因として活動したスピノザ的「自由」による喜びがあった。

言われたとおりにやるだけでは己の構想は差し込めないので、自分なりに組み上げる余白を持つこと。先んじること。

ただし、これもすべて、享楽的な部分が合わないと無理が出るだろう。立てた構想自体にノレない(千葉雅也『勉強の哲学』参照)。

さらに、今日は動物園に行って、主に鳥と猿を見た。レヴィ=ストロースの『野生の思考』によれば、鳥は人間と同じ社会性はありつつも、独立した体系で生きるため、名付ける際、マルコとかピエールなど人っぽいものになると言う。

どうだろう。社会性を感じる場面はあまりなかったけど、実に多くの種類の鳥たちを間近に見て、水面に反射する空の多様性に満ちた社会を想像することは容易である。

私たちを全体的に表象しているので、鳥類は隠喩的だとレヴィ=ストロースは位置づけた。

猿はどうか。あきらかに社会的であった。毛づくろいしたり、人間の幼いじ兄弟のように叩いてじゃれ合ったり、食べ物を手でわし掴んで奪い取ったり。哀愁漂う背中は酸いも甘いも知った中年のそれを彷彿とさせる。寝そべった猿の傍に佇むもう一頭の猿を見て「これうちの朝じゃん。」と寝覚めの悪い夫を起こす自身の姿を見てとった女性が諧謔を弄するのが聞こえた。

(続く)

2024.11.16(土)〈『百日の孤独』7日目〉


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