猿も鳥と同様、人間と離れたところで独立した生態を生きている点で隠喩的存在と言えるだろう。つまり、一人一頭対応させるように、ジョニーとか太郎とか名付けるのが自然ということ。小吉とか、まりえとか呼びやすいのであって、たとえば犬や猫みたいに、タマとかおもちとかティアラとかトラ子のような「かわいらしい名前」は馴染みづらいということである。
そう名付けるには、あまり人に近く、自分たちのことを動物として、人に飼い慣らされている印象づけをしてしまう気持ちになる(あるいは一面において、それは事実かもしれない)。まるで私がポチであるかのように。
猿は私たち人間を戯画的に映す鏡であった。そして、その鏡面はとろみを有し、手を差し入れて互いに握手さえできる。
鳥はその点鏡面が堅く、空という遠さを感じさせるがゆえに、安心して可愛さや格好よさを堪能できる。ジョージやたつお、パウルやヨーコといった人間的名付けも、プラムやピーコ、お豆、ちゅん助のような動物的名付けも両方違和感がない。
いつものカフェで読書、執筆。ベルクソン『物質と記憶』があまりに面白い。二周目で理解と記憶がより深まる。知覚とは物質から生物が関心を持たない部分を削除したもの、というようなことが看破される。これは主観的観念論と唯物論的実在論の双方に見られる「意識」についての矛盾を解消する契機となる思想である。
つまり、「すべては感じ方次第」でも「すべては科学で説明できる」でもない常識的な世界との接し方に一周して戻るような考え方なのだ。
真に新しく芯を食ったものは、常識にも接続されうるのかもしれない。
妻が切ってくれた「にっこり梨」が瑞々しくてとても美味しい。一日の読点としてのフルーツ。という題の絵を描いてみたい。絵は油絵を描きたい。全然上手くなく、ただ色んな色を最低限描対象を念頭に置いてべっとりとキャンバスに塗りつけるのが好きだ。物質性が絵の情報的側面を超え出るような美術。
そうか、Mybraryが、言葉をもののように触って行き来できたり、つくったり消したりできるように作られたのは、自分の油絵的物質性を好む傾向と響き合う。
中学の時の美術で、自画像に多彩な色を施したことを先生に強く誉められたことは、いまだ強い喜びの記憶として残っている。見えているものが人とちがっていることを評価してくれる原体験だったかもしれない。
そう、世界は見るだけなら、どう見たっていいんだ。
2024.11.17(日)〈『百日の孤独』8日目〉
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