お金を払ってでもやりたい仕事

プログラミングの仕事が少し楽しくなってきた。何に重点を置けばよいか、どこの力を抜いて、どこをスピーディに集中して進めるべきが分かってきた。

プロジェクトやクライアントによって、その「文法」とでも言うべき点を把握することから始まる。少しオーバー気味に色々試すことで、叩いて直してもらいつつ素速くほどほどの丸みを帯びた最低限必要なサイズへと到達する。

基礎がある状態。ここまで来ると、自分で構想を練り、実践もできるので、〈自由〉を感じやすい。

コードというテクストを読み書きするのは苦ではないので、〈構想の実現〉と〈無目的な享楽〉がともに満たされていることになる。ゆえに楽しい。

あと仕事で大事なのは、時間と量である。なるべく「お金を払ってでもやりたい」ぐらいの頻度、時間にまで量を抑えること。いくら「やりがいのある仕事」「社会的意義のある仕事」「自尊心を保てる仕事」であっても、自分が十億円の貯蓄を持っていると仮定した上で、「一日八時間週五日は、お金を払ってまではやらないなあ」と思うのであれば、それはある時間までが「やりたいこと」、ある時間以上は「やらされていること」なのである。

仕事はこれが混ざるからややこしいのだ。どれだけやっても「やりがいがある、やりたい仕事」なんて無い。たとえば、お金を払ってまでしている大好きな習い事や趣味があったとして、それを週七日間、一日八時間やり続けるとなったら、多すぎて一部、あるいは全部が「やりたくない時間」になってしまう。

「やりたいこと」を「やりたい時間」やっているから、それは「やりたいこと」のままであり続けてくれる。

仕事も同じだ。今の仕事が内容は自分に合っていて、やりがいも感じられるとして、それをどれぐらいまでなら「お金を払ってでも」やっていたいか。どこを超えたら「お金をもらわないとやっていられない」となるのか。

本来、充実した生活に近づけたいのであれば、まず労働の量の(基本的には)削減も考えるのがよい。

人間がAIとは違うとことさらに言おうとするのは、ダーウィンの進化論に対し、「人間は猿とはちがう」と反論したい気持ちと根は同じところにあるのではないか。

人間は(つまり「私」は)猿/AIとちがって理性的/情緒豊かであるはずだ、と。

一方、人間はある面で猿でありAIなのだと認めることで、むしろ人間についての理解も深まり、ひいては猿/AIとの差異の解像度も高まるのではないか。

2024.11.19(火)〈『百日の孤独』10日目〉


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