近所の定食屋でメンチカツを食べる。つくりたてのメンチカツは家で中々食べられない(文句ではない)。サクサクの衣の中にジューシーなお肉の旨みと甘みが内包されるこの芸術をだれが考えたのか。満足する。食は日々をご機嫌に生きるための有り難い源である。毎食毎食がある種の奇跡と思って楽しむ。
とにかくベルクソンが面白い。『物質と記憶』第一章。知覚はどこで起こるか。それは対象それ自体においてだ。脳でも感覚器官でもなく。たとえば、メンチカツの味は舌や脳内で発生しているのではない。まさにメンチカツそのものにおいて生まれるのだ。
私の身体とメンチカツは神経系を通してつながっている一つの全体であり、私の身体がどのようにメンチカツと関わり合うかを決定する余地として知覚がある。つまり、食べ続けるか(栄養になる)はき出すか(腐りかけ)、じっくり咀嚼するか(美味しい)さっさと飲み込むか(不味い)を決める手段として味覚があるということだ。
考えてみれば当たり前のように思えるが、私たちは、脳科学や心理学をかじったりしているせいで、すべては脳内の化学物質の反応などによって感覚が生まれ、そこに特権的な地位を与えてはいないだろうか。ベルクソンはこれを批判している。
——いやいや、すべては脳で起きているとかやっぱり変でしょ
と。常識的な考えを緻密な論理で確認し、むしろ常識的な世界のあり方を解像度の高い状態に磨いてくれる。それがベルクソンの魅力だと思っている。
2024.11.20.(水)〈『百日の孤独』11日目〉
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