愛、戦争、おなら

武術の稽古の疲れなどもありたっぷり目に寝た。若干仕事が追い込まれ気味だったが、頭がすっきりしていたので、だいぶ追い上げたように思う。眠いときは潔く寝てしまった方が、全体として見ると早く進む。

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昨日の夜はスピノザの読書会だった。専門でスピノザを学び修士号をとられている先生が、丁寧に一ブロックずつ教えてくれるリモートの会である。

スピノザの主著『エチカ』を扱うが、数学の証明のように幾何学的論証のもと進んでいくため、独特の読みが求められる。しかし慣れればむしろ明瞭で追いやすく、またどこから読んでも楽しめる。

「神即自然」(Deus sive Natura)という言葉が最も有名か。

この世界=神と措き、世界の一部である人間とか眼鏡とか哲学とかモーツァルトの音楽とかおならとかGUCCIの財布とか政治家の汚職とか戦争とか愛とか火星とか『吾輩は猫である』とか猫などは全て、神の部分的な様態、つまりは表現とみなされる。私にとっての指に生えている毛みたいなものだ。あるいは心臓、あるいは肛門、あるいはあくび、あるいは抱擁、歌声、ダンス。

しかし、いずれもそれ自体で、価値に優劣はない。私にとっての指の毛と心臓が等価に扱われるようにして、神=自然(世界)にとって、一組の男女の愛も、国家同士の戦争も、空気に放たれた、私のおならも同等のものとして考えられる。というか「価値判断」ということをそもそもしない。その意味でスピノザの世界はめちゃくちゃフラットだ。

そしてそのフラットなところから色々と考えていき、自然に導き出されることが、真理と言えるのではないか。

たとえば、神=自然にとって、愛も戦争もおならも特に善し悪しは無く、ただ一つの発生した現象(神の様態)として捉えられるが、人間(たとえば私)にとっては善し悪しが大いにあると言える。

(続く)

2024.11.21(木)〈『百日の孤独』12日目〉


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