無垢だからこその罪

 昨日観た能「求塚」と「石橋」の印象について。「求塚」は、二人の男に求愛された女(処女)が、いずれか決めかねて、鴛鴦を先に射た方を選ぶという条件を出したが、二人同時に射止めてしまい、不要な殺生をさせ、男の心も弄ぶ形となってしまったことに悩み自死し、その後地獄で苦しみ続ける話であった。

 これほど救われない話の能は初めて観た。

 前場(前半)のうららかな春の日に若菜を摘む女性が実はさまよい続ける女の霊という設定だが、初めの華やかで平穏な雰囲気から、後場(後半)に向かうへつれて次第に不気味で不穏な情景へと移りゆく様が見事だった。きっと恐ろしく繊細な技量を必要とするのだろう。

 あの女は結局僧侶の念仏でも成仏できなかったようだが、一体どのようにしたら心は安まるのだろうか。女に求愛した二人の男も、彼女の死を知り刺し違えて自殺してしまった。それによりさらに罪が深まった。

 すごい悪いことをしたかと言えば、そうではない気もする。動物一匹の殺生と男の心を結果的に弄ぶことになってしまった罪である。しかし、いずれも自身の心の弱さから生じたものであり、それでいながら自分が積極的に提案したことで引き起こされた悲しみでもある。無垢な女性であった彼女には衝撃が大きく、あまりに背負うものが重すぎた。

 いや、無垢だからこそ、よりその罪は重くなってしまったのかもしれない。

 そこには無邪気な軽率さがある。自分もそういうことをしてしまったことがあるが(同じ事例ではない)、その罪の重さに気がついたときの悲しみは筆舌に尽くしがたいものだった。そこから「復帰」するには多大なるエネルギーが必要だった。

 自分はなんてことをしてしまったのだ。まるで自分の自然な存在の仕方が、他者の気持ち、あるいは存在そのものを踏みにじるようなどうしようなさ。そのとき、私たちは根本的な変更、すなわち自然なあり方としての私を破壊する必要(あるいはそうしない覚悟)に迫られる。ただ私のままでいることで、他者を棄損してしまったのだから。「ありのまま」を変えるには、大きな苦しみの知覚が伴うだろう。

 しかし、ベルクソンを思い出す。知覚は変更可能性のあるところにのみ起こる。この苦しみは、「ありのままの自分」を、他者を踏みにじらないよう変えていける希望でもあるのだ。

 勿論、若葉摘みをしていた彼女、菟原乙女(うないおとめ)は結果的に一羽のオシドリと二人の男を死なせてしまい、その罪が赦されることはないのだろうが、それは相手が生きていても実はあまり変わらない。その事実は残り続けるから。

 念佛では救われず、罪に向き合わざるを得なかった菟原乙女の宿命は、私たちの存在の業についての誠実な表現だったのかもしれない。

 能「石橋」に関しては長くは書かないが(ちょっと疲れた)、獅子の躍動感溢れる舞が非常に豊かな祝祭性を感じさせた。紅白の二頭の獅子がバラバラに踊り狂っているように見えて、実は精緻なタイミング、位置取り、紅白で微妙に異なる個性の表現があり、「計算された無秩序」とでも呼びたくなるような面白みがあった。

2024.11.25(月)〈『百日の孤独』16日目〉


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