芸術という色眼鏡

昨日の日記はお休み。はじめての休みだ。「明日詳しく書く」みたいなことを書いたせいだと思っている。一度抱いた感動をあえて保留にし、再度思い出して「詳しく」書かなければならないというのは、この日記、というか普通の意味の日記から逸脱している気がする。

なぜか。日記とは毎日書くことのみ有限な制約として存在するのであり、それ以外はな何を書いてもよいはずのものだからだ。

出来事、考え、詩、俳句、短歌、あるいはフィクションでさえも書いていい。しかし、「書かなければならない内容」は無いのだ。ないようがないようから始まるのが日記なのだ。

ゆえに、本来の自分から「日記」を奪ってはならない。

日記とは常にスキゾのメディアであったはずだ。

自己一貫性を外し、あっちゃこっちゃリゾーム状に行き来できる最高に楽しい遊び場であるはずなのだ。実験場であり、それがそのまま作品になってしまうのが「日記本」なのだ。

すげえじゃん、日記本。

スキゾの反対はパラノ。ドウルーズサガタリがつくった総念。常に自己同一性を高めようとするスピノザのコナトゥスはパラノ的なのかもしれない。しかし、あえてスキゾに飛び回ることが私の自由を守ってくれることもある。

パラノはエロスで、スキゾはタナトス?つながるだけでなくバラバラになって適度の破壊を楽しむことが享楽(ラカン)? それは福岡伸一の「動的平衡」ともつながりそうだ。その意味で私が私であろうとする努力=コナトゥスには、スキゾやタナトスも含まれるのだろうか?

芸術作品は千葉雅也が『センスの哲学』で言うように、作者の「どうしようもなさ」を巧みなセンスと絡めて表現しているものだとしたら、センスアイランドで観た作品たちはいずれもその作者のこだわり(こだわってしまう方向性)が感じられた。その人の世界の見方があって、それがある切迫感をもって、生々しく身体に侵入してきた。

海をバックに串に刺された土球たち。戦時中掘られた空間内に置かれた透明な球、海やモールス信号の音響。戦後アメリカ兵向けにつくられたお硫黄島の絵がついたスカジャンと製作者の手紙。波の音を聴きながら、二枚の貝がらを両目にかぶせ星空の下眠る時間。小山の開けた場所に吊るされた横長のの水の流れを歴史を内包させて表現した染め物。

芸術は、普段見ている世界の中にあるにも関らず、見えていない存在を具体的な形で見せてくれる「色眼鏡」である。

通常この言葉は、対象を自分の狭い理解の中に閉じ込めてしまうときに使うが、ここではむしろ自分を狭さや固さから解放し、もっと複雑である世界の様相を自分のそれとはちがった有限性で見せてくれるものという意味で用いている。

猿島で作品を観賞しているとき、横須賀の煌びやかな陸地はあちら側にあった。一方、普段と異なる研ぎ澄まされた感性で(暗闇であり、スマホは封筒に入れ使用を禁止される)、異質な世界を切り取るものたちと触れ合う島は「あちら側」だ。

そして、フェリーに乗って「あちら側」としてのこちら側から、「こちら側」としてのあちら側に移動する。その間(あわい)の時間・場所であるデッキ上で作品の余韻に浸っているとき、この小旅行と普段の買い物のつながりを知ったのだ。

日々はアートでもあると。

2024.12.2(月)〈『百日の孤独』22日目〉


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