飽きたのだ

もうすぐ放課後支援のマネージャー職を辞めることになる。あと一回の勤務。

マネージャーといってもアルバイトで、自分は週に一日分のシフトだ。学校と提携しているサービスで、放課後に一、二教室をお借りして、大学生のメンターさんたちが生徒の勉強をサポートしたり、雑談を交えつつ彼/彼女らの成長につながりそうな話などをする。その場全体の管理者として、様々な総務を行なうのがマネージャーの仕事内容となる。

また、騒がしい生徒もいるので、静かにさせたり、立って喋りつづけないよう座らせたりなど、現場の秩序を保つのも大事な役目だ。

いわば、事務と教務と接客(特に先生方に対して)と人事(メンターさんの教室ごとの配置)と警察的な役割が重なり合ったような仕事である。あるいはイベントに関わることもあるので企画も含まれるかもしれない。

いずれの面も、それに特化した職業に比べたらミニマムなものだと思う。しかし、少しずつだが色んな要素があるので、地味に大変ではあるかもしれない。穴が無いパラメーター値を求められるような。PCやSlack、スプレッドシートなどITツールも結構使うし。

自分がこの水準を満たしていたかは定かでないが、およそ半年ほど従事して辞めることにした。

なぜか。

飽きたのだ。

誤解があるといけないので言うが、やりがいのある仕事だ。やれることはたくさんあるし、色んな力を生かせる。大人とも子どもとも大学生さんとも社員さんとも関われる。

適性がある人は存分に楽しめるはずだ。

だが、自分の場合は「ガッツリこの時間はこれを集中してやってくれ」と指示される方が好きだと分かった。しっかりと有限化が強制されていること。

否、強制されることを有限化と呼ぶのだ。殊、労働においては。

お前は指示待ち人間なのか!

と誹りを受けるかもしれない。「会社の理念があるのだから、それに適合するような仕事を自分で生み出せ(経営者視点で!)」、「現場でもっと改良できることがあるのだから少しでも向上せよ(現状で満足するな!)」。

だが私はアルバイトである。そんなことをしては「給料泥棒」の反対である「労働力泥棒」(柿内正午)をされてしまう。

そこまでのモチベーションは、週一日のアルバイトに求められるべきものでなく、自分からそれを満たそうとするのは、その仕事が趣味のように楽しいがゆえに、半分労働でなくなっている時のみである。

そして、勿論「趣味のように楽しんで働け」とは誰にも強制する権利はない。心の問題なのだから。

では、もっと仕事はないかと指示を仰げばよかったのか?

おそらくそれは正しい。しかし、私はそれをしなかった。それはやはり、もっと作業をしたい、と思えるほどの楽しみがなかったこと、そして別の「これより楽しく給料がもらえる仕事」が副業としてあったからだろう。

後者はダメ押し的要素であり、前者が本質的である。

暇なのは苦痛だが、特にやりたくないことを自分から増やしにいくのもまた苦痛なのである。

従って私は「指示なし人間」となり、この仕事に退屈した。

最初は、学校内で生徒と関わり、様々な新しい刺激に満ちていた。覚えなくてはいけない仕事も。

だが、概ね環境に慣れたゆえに新しい刺激を必要とする。しかし、フルコミットするには私の時間と報酬が足りない。そして地味に生活リズムと出勤時刻も合わない。

様々な条件が重なり、「生活の負荷を少し減らす」という自分の流れも相まって辞めることになった。

この仕事が悪いのではない。(今の私との)組み合わせが悪くなったのだ。

幸い次の担当者の採用は速やかに為された。私よりも持続可能な組み合わせの良さを期待する。

2024.12.4(水)〈『百日の孤独』24日目〉


投稿日

カテゴリー:

, ,

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA