設計書を書くのはなぜつまらないのか

もう一周できる。

そう思うことで、今の作業の勢いを殺さず、スムーズに進めていける。

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プログラミングで設計書やテスト仕様書を書くときは自然言語を扱う。コードの形式言語に比べて曖昧さがあるということだ。

コードは表現が誤っていたらプログラムが正常に動作しないので正解が分かりやすいが、設計書などの記載は散文より遥かに厳密な書き方が定まっているとはいえ、少し間違っていても理解できてしまう。

また、コードは「てにをは」などの任意性の高い助詞みたいなものがない。一方、設計書はどこまで細かく書けば「分かる」か、という判断負荷が常に介在してくる。

これは機械に理解してもらうようコードを書くのと異なる。機械に指示することを人間のために翻訳する感じがあって、面白いというより煩わしさが勝る。

たぶん機械のようにシンプルかつ厳密に伝わるわけではないが、自由な散文的表現の可能性は排されているからだろう。

面白味のある文としてもシンプルなコードとしても書けない自然言語を書くこと。

おそらくこれは必要悪としての文章だ。

本来、無くても動けばそれでよく、仕事を引き継いだり、自分の中で整理する必要があるために書くのだ。

とするとこれは他者あるいは自分への優しさとしての言葉たちなのかもしれない。人間を機械にキャッチアップさせるための言語。

取り扱い説明書などもそうだろう。マニュアルだってそうだ。人をシステムにキャッチアップ、つまり理解させ従わせるための文章だ。

それが悪いというわけではない。が、やはり必要悪な手段的表現である。

おそらく自分は、しっかり厳密に作用するシンプルなプログラミング言語が数学的面白さのようで好きだし、自由な表現で様々な解釈を呼び起こすことも可能な散文・韻文的自然言語が国語的魅力として好きだ。

その両方の良さを殺し合うような事務的資料の作成が好きではない。自分の「享楽的こだわり」(千葉雅也『勉強の哲学』)に合わない。

なんだか仕事への不満足な部分について連続して書いている。

ストレスが溜まっているのだろうか。いや、単に重なっただけだ。重大な傾向として捉えすぎないこと。

こうやって日記本の制作が続いているのはかなり良い。日記形式で百日をゴールとすると、着実に前に進んでいる感じがあるものだ。呼吸はできている。ランニングもしている。

明日から新しい「部活」が始まる。「Mybrary部」だ。この画期的なプロダクトを二時間集中して進める。一緒に取り組む技術者の仲間が欲しい。一人部活はさみしい。

2024.12.5(木)〈『百日の孤独』25日目〉


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