自分の買った豆で妻に珈琲を淹れてもらった。キース・ジャレットの弾く『平均律グラヴィーア』を流しながら飲むと「珈琲」といった感じなのだ。
丸みがある輪郭の中に複雑な苦味が包まれている。それは軽やかに解け、口、鼻、喉、腹にまで充満する。この空間、時間がなんだかとても渋くて大樹の幹にあるひだのような老練なものとして感じられる。
この時間をつくってくれるものとして、「珈琲」は明らかに私に自由をもたらす。
まるで旅だ。
これは旅なのだ。
ここにいながらにして新しい景色の広がりを楽しむこと。
様々な豆が様々な景色をつくる。
言葉もそうだ。その並びで無限の景色を辿ることができる。
珈琲は言葉かもしれない。
この飲みものには、数限りない言葉が幾重にも小さく折り畳まれ、産地や文化、知恵、思いなどの記憶として溶けている。
私は珈琲の持つ複雑性を愛する。
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すごい文量になってきた。原稿用紙に書き、一つの作品としてこれほど書いているのは初めてかもしれない。それだけ「日記本」という形態が合っているのだろう。
縦横無尽、深浅問わず自由に書ける。が、毎日何かしらは書かないといけない。それでいて、一日が終わるところで強制的に終わらせてくれるルールの程よさ。
「日記本」というスタイルが踊り方を規定してくれる。ここで私は自由に踊れる。無目的に、ただ享楽を得るために遊んでいる。
日記本は、良かろうと悪かろうと前に進む。決めた日数分(100日)まで「進み続ける」(エレン・イェーガー)。反省および加筆修正は、二周目に保留する。二周目とは推敲時であり、そこでエディター目線で色々整える。
一周目を終えて全体像を把握した上でないと、有効な修正方法も分からない。にもかかわらず、一周目で悩み停滞してしまうことを、日記本はその仕組みにおいて防いでくれる。
ここで学んだ感覚を生かして、次は日記本ではない著作にもチャレンジできるかもしれない。
それは小説か、この日記本から発展させたテーマ別のエッセイか、なんらかの論考か。あるいは人文書の解説記事を三十本、とかでもいいかもしれない。インプットがアウトプットの自由度を高めてくれる。
大事なのは、本数、ページ数などのKPI、すなわち有限な数値目標を決めて、毎日少しずつでも進み続けることだ。
この遊びで、私の半身〈書く私〉は満ちる。
〈みなと遊ぶ私〉は、MybraryとTeracoyaという「部活」を求めている。
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洗濯したズボンを干すときには、何となく風に飛ばないよう洗濯バサミで押さえる場所を股間から外している。
2024.12.6(金)〈『百日の孤独』26日目〉
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