ぴちぴちの天使たち

蓮實重彥が『新潮二〇二五年一月号』で千葉雅也と対談しており、その中の言葉に「勇気づけられ」(千葉雅也)た。

何も残っていない、ということからどう語り始めることができるのか、が重要なのだと思っています。

これは映画や小説の批評に関することだが、日記本にも言えそうだと、書いている身として思った。

「あれを書こう」と思ってメモをしておき、当日あるいは後日それを書いてみたが、何か文章を書く際の楽しいドライブ感みたいなものが減殺された。なぜだろう。ライブ感が無いから? 今降ってきて、そのまま書き下ろす鮮度が落ちるから? 僕が好きなのはぴちぴちの言葉たち。天界で泳ぐ言葉の赤ちゃん天使がふわーと僕の元に遊びに来てそっと囁く。それを聴き取り、文字として翻訳する。

その「ふわー」は、一旦置いておくと体験としてなくなり、囁きの音の連なりをただメモした情報だけが残る。これを書くのは脳的な作業で爽快さに欠ける。

ふわーっと来て、そのまま書くのが一連の体験として楽しく爽快である。

自分は書くのが好きだ。このようにして書くことが、である。

パブロ・カザルスのバッハ『無伴奏組曲」が、天使の比喩をもたらしたのかもしれない。

ジャズのライブセッションのように、今そのときの一回性からそのまま「作品」が出る感覚。むしろパフォーマンスとしての執筆に惹かれる。

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鉛筆Bは書いてて疲れる。次はHBを書こう。

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暗闇の 先にいるのが 野菜たち

昨日の夜、読書カフェに妻と行った帰り、スーパーマーケットに近づく道中にて。

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Vaundyの「GORILLA芝居」という曲が頭から離れない。

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机上のタブレットを下ろして不可視化するのは、曲を操作できてしまう無限性を嫌ってのこと、というのもありそうだ。見えなくなれば、当面今流れる曲をバックに目の前のことに取り組もうと有限化できる。BGMが「仮固定」(千葉雅也)され、集中力が上がり没入できる。

2024.12.8(日)〈『百日の孤独』28日目〉


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