昨日友だちとキャッチボールをした。清澄白河の公園にある、寒いけれど温かい陽の差す広場の片隅で。
友だちの後ろには紅葉した樹々が茂っており、肩も温まってきた頃、球を投げるために構えていたとき、颯爽と風が吹き赤黄の葉が斜に舞い下りる様を背景に僕の投球を待つ友の姿を含めたこの景色を生涯忘れないだろうなと思う永遠の瞬間があった。永遠、スピノザの言う〈永遠〉とはこれなのか。そのとき、過去も現在も未来も無くなる。
SNS。千葉雅也と坂口恭平のX=Twitterを見ると、多彩な趣味的活動(仕事も含まれるが)、に刺激を受け何かやりたくなってしまう。目移りが起こる。それが自分の生活の弱さを意識させてくるときがある。
ああ、なぜ自分もこのような活動ができていないのだろう。
しかし、僕は僕で今考えられる最も楽しい生活を、あるいはそれに向かうための活動をしているはずなのだった。
彼らの音楽や絵は、僕の日記本やMybraryや読書会やランニングなどであるはずだ。そして、それらを怠りなく行なっているとき、先ほどの問いは霧散する。
もし、活動中や直後ですらもそう思うのなら、変えた方がいい。しかし、「今日もやってよかった!」と穏やかな歓喜に包まれるのなら、何も問題はない。
他者を羨むとき、足りていないのはいつも自分の活動ではないか。
羨んでいるのは、他者でなく、彼彼女に投影した「充足した自分」ではないか。
あるSNSユーザーは、他のユーザーに対して劣っているのではなく、並行しているのだと考える。千葉雅也の『センスの哲学』によれば、あるモデルへの不足を埋めようとするのは「センスがない」(センスに無自覚)。
他者のライフスタイルを、ある並行した可能性=多様性として眺めつつ、私のライフで楽しく光る部分を見つめていくこと。SNSウォッチのコツはこれである。
2024.12.9(月)〈『百日の孤独』29日目〉
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