昨日、放課後支援マネージャーの仕事が終わった。一緒に仕事していたメンターさん(大学生)や学校の生徒たちと会えなくなること、そして学校という空間からはほぼ永遠に遠ざかってしまうことに喪失感はあった。淋しさがあった。残り香、名残り惜しさ。
しかし、悔いはない。一ミリもない。やるべきタイミングで、適切な頻度と期間、良い人たちと働けたと思う。ただプログラミングだけをしていたら出来なかった稀有な経験。複業形態のうまみ。
大人になって、社会人として生徒たちにしっかりと空間の使い方を正すよう注意するのは、僕たちが中高生の時に先生方から受けたことだ。今も僕は習い事で先生方から指導を賜っているが、注意や指摘をされて潔くそれを善きものとして受け入れる今の姿勢はかつてなかった。
遅刻を何度もし、注意されても平然としていた。授業中に洋書を読んで謎の「できるアピール」をしようとしてバレても、ぶすっとして謝らず本をしまうだけだった。
そういう生意気な態度を取られる感じ、それでもなお注意を続けて「渋々従う」というのをされる側の景色。これこそ、かつて先生方が見ていたものだったのだ。
また、警察のような「秩序を守る人」のやりがいも分かった。生意気な人間にとって、彼彼女らはルールを守ることを強制してくる煙たい(失礼!)存在にも感じる。が、(緊張感や必要な技術、力のレベルは違えど)いざそちら側に立つと、見えてくるのは三つ。一つは場全体の安心感、二つ目はしっかりルールを守る人(静かに勉強する生徒たち)、三つ目はルールを破っている人(立ち歩いたり、声のボリュームが大きかったり、いたずらしたりする生徒)である。
普段、守られる側のときは、自分が三つ目の存在として目をつけられないようにするという意識が大部分を占めるが、見守る側のときは三つとも見える。そして、我々(とえらそうに言ってみる)は、二つ目の人たちの喜びや安心を守り続けるために、一つ目の全体の場の状態を一定以上整然と保つ、ために三つ目の秩序撹乱分子を必要最低限の力をかけて秩序内に押し戻す(キャッチャー・イン・ザ・ライ)。ポイントは、諭すことによってでなく、圧力を加えることで、という点だ。
守られるべき人のために自分の力を生かし、幸福を持続させる。
「警察的仕事」のやりがいはこれなのだと、身体で理解できた。
『ONE PIECE』の世界でかっこいいのは海賊たちで、海軍は権力を振りかざす正義の顔をした悪のような印象を私は持っていた。自分を海賊に重ね、秩序に縛られず、世の中に自由を少しでも実現させる存在になるのだと希望していた。
しかし、海軍は確かに市民の平和を守っており、それは大切な仕事だったのだ。
そしてこれは面白い。命賭けではあろうが、自分の持つ力を捧げるだけの魅力がある仕事だと思う。
秩序を更新する側にも守る側にも、それぞれの面白味があったのだ。
ゆえに、こう書いていてやっと分かったのだが、僕は放課後支援の仕事において、主に〈警察的仕事〉にやりがいを得ていたのだ。教育ではない。他二つの教育系アルバイトと比較してもそこは明らかだ。
強いて言うなら、「警察的に環境を整備する」という方法で教育に携わってきたのだ。警察も現場の誘導や事務作業だって行うはずで、教室の開放やメンター配置の管理、記録や資料作成などの事務作業もこれに対応して考えることが可能だ。
この仕事は、「秩序を守る」という一言に集約される。
ここまでで、なぜやりがいがあったのに、辞めることにしたかが分かってきた。
秩序を守ることを主目的とした仕事は、自分の享楽には合わなかったからだ。たぶんある程度は得意なのだ。能や截拳道によって力というか気の流れを強く使う感覚を養っているし、神経質な性格が、「どこから秩序が乱れていきそうか」という混乱の予兆を前もって把握し「刈り」にいくよう促す。
だが、やはり自分はフロントで何かプレーをしたい人間なのだ。それをした上で、全体の秩序を保ちたい。自分の作ったもの、フロー、場を守るために、ディフェンスの力を使いたい。あくまでオフェンスの手段として。
ゆえにオフェンスを役割としない放課後支援マネージャーの仕事に今一歩自己表現感を得られず、手が空いても「もっと次の仕事を」とはならなかったのだと思う。
自分の享楽について改めて認識を深められた点においても、今回の仕事は大変有意義だった。
さて、火曜日の夕方が空いた。そして仕事はすでにフロント=オフェンスになった。享楽から大きく外れた仕事はなく、いずれも量は多すぎない。生活を維持できるレベルで労働は調整された。
潔くフロントに立とう。ここで坂口恭平のTwitterが響いてくる。彼の文筆、美術制作、音楽活動を並行して楽しむライフスタイルが「モデル」としてでなく、「一例」として際立ってくる。
のびのびと様々な活動をしたい。表現活動を。ただし、一つ一つ凝縮した集中力を用いる形態で。その点私はパフォーマーなのかもしれない。パフォーマンスの痕跡としての作品。能の発表会、あるいはその練習のような意識の負荷を味わうこと。我、タナトスを求む。
しかし、それでいなから、大らかなスキゾチックなテキトーさも欲しい。大きく、大胆に、細部はこだわってもこだわらなくてもいい、という留保の中で空を飛び回りたい。
このようなことが可能な秩序をつくる。
そのような秩序を守る。
ここで放課後支援の〈警察的仕事〉の知見が生かされる直観がある。
2024.12.11(水)〈『百日の孤独』30日目〉
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