今、日記本を原稿用紙に鉛筆で書いているが、データ化することを考えると気が重い。
iPadでスキャンして、テキストを認識させれば一言一句タイプする必要からはまぬがれるが、字が乱れている箇所もあり、修正作業が多いことが見込まれる。
そのことを意識して、今また字が初期の頃みたいに丁寧になる。
機械に読んでもらえる字を書く。丁寧に。
おとといぐらい、眼鏡屋のJINS!を探していて、同じモール内の無印良品の店員さんに「JINS!ってどこですか?」と尋ねたら、ジーンズ売り場に案内された。互いに非はない。まあ、そうなる。もしかしたらジーンズもそろそろ欲しかったのかもしれない。しかし、必要なのはやはり紛失した眼鏡の鼻当てパッドの片方なのであり、ジーンズを吟味する時間も無かったため、すぐにJINS!へと足を運んだのだった。
ちなみに昨日鼻あてパッドがスーツのポケットから出てきた。失われた些細な物品を起点に、謎のミニコントが必要もなく起きたところに人生の妙味があるような気がしている。
失くしたものは数あれど、失敗した数は底知れずとも、その欠落が私を彫刻し、今の形に至ったのだ。それも味わわずして、老いることはもったいない。
何か起こるのは、加わったとき、あるいは減ったとき。
私の仕事も一つ減り、そこに時間と、つかなければならないポジションの削減が生じた。
これが意識全体の構成に激的な変化を与え、結果、美術と音楽の習い事を始める決意へ至った。
坂口恭平の影響は大きい。また、友だちと観に行ったアート展示も、そしてちょくちょく歌うカラオケも。千葉雅也の影響も然り。
享楽的に共振するのは、多才で多彩な趣味も持つ人たち。スピノザも然り。SNSや書き物を通し、ポリフォニックに私も震えた。
Mybraryは確かにアートでもあるが、なんとしても広めるため、目的的な「ツール」へと舵を切る(「生命命型育己発見ツール」)。ゆえに、目的を持たない純粋なアートへの欲望は芸術活動でしか満たせない。
自己目的的でそれ自体が美味しい、複雑な味わいも持つぎょうざ(『センスの哲学』)みたいなものを作る行為を、日常に溶かすこと。
文章以外の側面から、万華鏡のようなきらめきを多様な文化的活動を通して世界の内に見つけること。
やりたいのはこれである。
〈書く私〉〈みなで遊ぶ私〉〈アートをする私〉←New!
「アート」は、意味が無く、ただつくること。音楽、美術、詩、小説、舞踊、陶芸、なんでも。料理もか。比喩でなく直接的に。
この中でも興味が尽きないのが音楽と美術だ。ずーっと、やりたいと思っている。
しかし、幅が広すぎるので有限化し、集中させてくれる環境が要る。ここで習いごとだ。先生の効能はやるべきことを絞ってくれる点であると千葉雅也も『勉強の哲学』で言っている。
美術は手始めに近場のデッサン教室で基礎を学ぶ中で、題材をハックして制作をしよう。月二回二時間ずつ四千円は丁度良い。
音楽は突き詰めると、したいことはまず次の二つ。
①作詞作曲して歌い何らかの形で発表し反応を得ること(発表に至るまでに「アルバム一枚分」ぐらいは溜めておいてもいい)。
②ピアノを即興で自在に演奏すること。
①をまず始めて途中から②も併走させたい。したがって、絵画教室に慣れてから(ほぼ同時でもいいのか?)、拙くても作詞作曲し、自分で歌って発表できる教室(あるいは個人の先生)を見つけよう。
②のピアノは、①と共振し、自然にタイミングが訪れるはずだ。
2024.12.12(木)〈『百日の孤独』31日目〉
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